社会とのチューニング

コメントお願いします!

「民主主義を望まない」という民意

共謀罪強行採決など、最近の国会では民主主義が機能していない。

 

与党の政治家に、やり方が全く民主主義でない、と文句を言うと、

 

「これが民意ですから。選挙という正当なプロセスを経た結果ですから。」

 

と言われてしまうのだ。

 

これを言われてしまうと、確かにその通りで、私が思っていることは少数意見なのだがら、大多数の意見に従わなければならない。

 

しかしながら、私はこれには全く納得できない。

 

私はただ、民主主義に基づいてください、と訴えているだけなのだから

 

私の他にも、同じように訴えている人はたくさんいるのだが、受け入れてもらえない状況が続いている

 

私のように、「民主主義に基づいて欲しい」という民意が、なぜ受け入れてもらえないのか。

 

私の意見を少数にしている、大多数の意見とはなんであるのか。

 

これは、日本の大多数の国民が「民主主義を望まない」と思っているからではないか、という結論に至った。

 

彼らにとって民主主義とは、足の引っ張り合いに過ぎず、国家に任せておけばうまくいく、と考えているのだろう。

 

こうした考えは、全くもって大甘である。

 

民主主義を手放すということは、自分の権利やプライバシーなどを放棄する、ということと同義なのだ。

 

それがいかに危険なことなのか、国家による弾圧を経験していない人たちだから、全く理解できないのだろう。

 

同情するならば、日本はフランスのように民衆が立ち上がって権利を獲得してきた国ではない。

 

日本はどの時代においても、為政者が納税などの対価として、一般民衆を保護してきたに過ぎない。

 

明治維新だって、一般民衆からすれば、お上というものが、江戸幕府から明治政府に変わっただけなのだ

 

未だにその感覚が根付いていて、私たちはお上に文句を言わないのだから、保護されるべきという感覚で現代を生きているのである。

 

こうした感覚は、国際社会の中でも日本くらいのものなのではないだろうか。

 

自分たちはリアリストを気取っているつもりかもしれないが、本質は視野の狭い、歴史を知らない赤ん坊である。

 

日本でも多くの人が、権利を得るために戦ってきた。

 

その恩恵にあずかることのできた時代は終わり、再び権利を得るために戦わなければならない時代がきたのである。

 

歴史とはそういうもので、平和と激動を繰り返しているだけに過ぎない。

 

本質的な意味においての自己の権利、安全、プライバシーが欲しい国民ならば、立ち上がらなければならない。

 

話は完全にそれてしまうのだが、

 

私にとって、お金をひたすら稼いでく人生や、名誉のために生きていく人生に、全く興味が湧かなかった。

 

人の人生というものに、意味があるとするならばそれはなんなのだろうとずっと考えていたのだが、

 

人の人生とは、自分の権利を、自分の力で勝ち取っていくことなのではないだろうか、という結論に至った気がする。

 

 

私たちは現在確かに、安全な空間に生きているのだが、

 

それが同時にVRで表示される世界のような、虚構性の世界で生きている。

 

その虚構を埋めるにはどうしたらいいのか。

 

それが私にとって人生というものなのかもしれない。