社会とのチューニング

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共謀罪に強く賛成する一般の人たち

不思議に思うことがあった。

 

ネット上に、一般人にはデメリットが大きすぎる共謀罪を歓迎する書き込みが多くあることだ。

 

野党憎しの彼らだが、それだけで共謀罪を歓迎する理由がわからなかった。

 

共謀罪が成立した日に、武道家、哲学家の内田樹さんのツイッターに「日本から出て行け」などのツイートが多数あったらしい。

 

現在、沖縄の反基地集会などに反対の立場から潜り込んで、動画をアップするなどの活動をしている人がいる。

 

これからは、動画を撮るだけでなく、例えば盗聴器をその集会に仕掛け、共謀に当たる言葉を録音できた瞬間、警察に持ち込むだろう。

 

yahooのコメントに過激なコメントを書き込むような、総人口の1%にも満たない人たちに、警察の権力を与えてしまったのだ。

 

これまでは、ネットに差別的な言説を書き込むとか、ツイッターに突撃するぐらいしか攻撃手段を持たなかった人たちに、擬似的に警察権力を与えてしまうのがこの法案の最悪な点だ。

 

テレビでコメンテーター達が監視社会がくる、と言っていても、ピンとこなかったのだが、

 

内田樹さんにおこった事を聞いて、ようやく事の重大さに気づいたのだ。

 

これから、youtubeに「捜査してみた」などといった、録音データが投稿されるのも、遠い未来の話ではないと思う。

 

戦前、日本にも隣組といった、市民に市民を監視させる制度があった。

 

隣組が批判される時、政府の制度として批判されるのだが、その時に権力の側に立って、嬉々として通報していた人もかなり多かったのではないだろうか。

 

そういった人たちは、ただただ権力の側に立ちたい、または権力を私物化したいだけに過ぎないのだ。

 

それが、また再び日本で繰り返されるようになってしまった。

 

政府も、私たちは関係ないと思う一般人も、私も、全てが愚かだ。

今時の若者に反抗心がない理由

私は今年で26歳である。

 

先日、あるきっかけにより今時の若者に反抗心がない理由がわかった。

 

あるきっかけとは、なぜ私は最近の自民党による非常に強権的な国会運営にはらわたが煮え返る思いをしているのだろうとふと思ったということだ。

 

私は、強権を振りかざして少数の意見を排除するものが大嫌いだ。

 

おそらくこの理由は、私の父親が現代においては非常に珍しい、昭和的で、星一徹みたいな奴だったことによる。

 

この星一徹は、家族に対し非常に強権的であり、手はあげなかったものの非常に強い言葉によるDVを行い、子供の頃の私に非常に強いトラウマを植え付けた。

 

父親そのものにもトラウマがあるのだが、私は子供の頃、この男に対して何も反抗できなかったのだ。

 

子供という立場に甘えて、母親の陰に隠れてしまったという惨めさこそが、子供時代の最も根源的なトラウマである。

 

時代が進むにつれ、星一徹のような父親は消えていった。

 

例えば、大学紛争が最も激しかった時代、当時の学生たちの家庭ははほとんど星一家のようなものだったのではないか?

 

家庭において非常に抑圧されていた当時の学生たちが、自分の家庭の抑圧性を、当時の日本の権力者たちに見出し、反抗したのではないだろうか。

 

私は、反権力の根源性を、家庭のトラウマに見る。

 

なぜ権力に反抗するのかという理由に対して、反権力がかっこいいとかそういうのではなくて、自分の中のトラウマが思い出され、居ても立っても居られないのだ。

 

若者が反抗しない理由として、未来に希望がないだとか、色々言われてはいるが、私にとっては全く見当外れである。

 

また、同世代の人が、反抗しない理由として、反抗するのがかっこ悪いなど、非常にスマートなポジションを取っているが、

 

そういう人の家庭には、星一徹はいなかったのではないか。

 

いなかったのであれば、反抗する意味などないし、その理由もわからないだろう。

 

また、わからないからこそ、私のようなものが滑稽に見えるのかもしれない。

 

若者が民進党ではなく、自民党に投票することとも関連性が見えてくる。

 

私にとって安倍政権というのは、その強権的な政治スタンスがトラウマものなのだが、

 

それにトラウマのない若者というのは、テロなど頻発する国際情勢において、指導力のある政権というように見えてしまうのかもしれない。

 

安倍政権というお上、また親というべきものに反抗心を持つ人が生まれてくる土壌が、今の日本の家庭にはなくなってしまったのだろう。

 

子供は褒めて育てろという。

 

その通りだと思うのだが、本人が居心地がいいだけの環境に置かれていただけでは、ただ従順な人間になってしまう。

 

反抗心は人から教わるものではない。

 

子供の頃の強烈な体験によって、適切な反抗心を養えるのだ。

自分の黒歴史と青山繁晴氏

私は学生時代、ネトウヨだった。

 

ニコニコ動画などで、青山繁晴氏の動画に影響されていた。

 

彼の北朝鮮に対する主張などまさにその通りだと思っていて、こんな人が政治家になればいいのに、と思っていた。

 

6/10に放送された「よるバズ」で、久しぶりに彼の話す動画を見た。

 

結論から言うと、氏の発言に非常に幻滅し、自分の恥ずかしい過去を思い出し残念な気持ちになった

 

氏は加計学園の問題に対し、全く問題でないとの一点張りをし、他の出演者の意見を聞かないどころか、他の方に対し全くリスペクトのかけらもないような振る舞いをしているようだった。

 

私は、yahooニュースのコメント欄などのネットの非常によくない言論に対して思うことがある

 

それは、各個人がどんなコメントをしようが勝手であるが、他人に対するリスペクトが感じられないようなコメントは嫌いなのだ。

 

私はかつて青山繁晴氏の北朝鮮に対する主張に対し賛同していたので、他人に対するリスペクトが感じられない現状の彼に対して、yahooコメントに書き込んでいる人たちと同レベルの知性しか持っていないように感じ、残念に思った。

 

同様に加計学園の問題で、かつてヤンキー先生と言われた義家副大臣が、内部告発をしてきた官僚に対して国家公務員法違反であると発言し、国家によるいじめではないかと批判を浴びている。

 

青山繁晴氏と義家副大臣、かつてキラリと光る個性を持っていた二人だが、権力の側につくと、こんなにも醜く映ってしまうのか。

 

話を元に戻すが、青山繁晴氏が加計学園問題において、与党にまずい点はなく、むしろ悪いのは足を引っ張る野党である、との発言が大変気に入らない。

 

加計学園問題に興味のある一般国民が知りたいのは、加計学園の先行プロセスにおいて公平性が守られたか、と言う点ではないか。

 

与党を支持するものはどいつもこいつも、この問題は既得権益を守ろうとするものたちとの戦いである、と主張するのだが、

 

私たちが知りたいのは、その既得権益を守ろうとするものたちとの戦いの中で、公平性がちゃんと守られたか、と言うことなのだ。

 

既得権益と戦うためなら、民主主義に基づかなくても言い訳がないだろう。

 

それに加えて、既得権益を守ろうとするものたちとの戦いである、との主張は、ある種政治家同士だから通じるものであり、全く国民目線でないのだ。

 

官僚同士がそういった会話をするのであればまだわかるが、政治家というものは常に国民目線でなければならないのではないか。

 

青山繁晴氏の発言を聞いていても、やはり彼の発言からは国民目線が感じられなかった。

 

この手の保守系の人たちは、とにかく国というものが第一でなければならないので、私たちと話が噛み合わないのだ。

 

国のことを本気で考えてくれている点には非常に感銘を受けるのだが、またその思想は全体主義で危険なのだ。

 

全体を見るものは、全体の中に必ずいる少数者に想いを馳せなければならないのだ。

 

自分と意見の異なるものを排撃するものに、全体を預かる資格などない。

 

彼には与党として全体を預かるものの資格がないように感じた。

 

彼の拉致被害者に対する活動など、彼の全てを否定するわけではないが、彼のような人間は全体として、非常に危険である。

 

なんとか気づいて欲しいのだ、自分が危険な存在であることに。

絶望と無関心の日本社会

ネット上では、中国、韓国が嫌いだという声が大きい。

 

基本的にそう言った人々はノイジーマイノリティだと言われ、日本人の多くがそうした考えを共有しているわけではない。

 

しかしながら、今の自民党一強の政治体制は、彼らノイジーマイノリティが最も望んでいることである

 

なぜ日本人全体の総意と、ノイジーマイノリティ達の投票結果が一致してしまうのか。

 

それは一般の人々は、忙しいからである。当たり前のことだが、彼らにとって自分の生活の方が大事なのである。

 

絶望したノイジーマイノリティ達と、無関心な一般の人々によって支えられているのが今の日本の政治ではないか。

 

筆者は学生時代、いじめにあったのだが、その時と今の日本は構造的に重なって見えてしまう。

 

私をいじめていた彼らは、家庭に問題があったりして、ある種かわいそうだった。

 

また、多くのクラスメイトはいじめを無視したが、彼らの気持ちもわかる。自ら火の粉をかぶりたい人なんていないと思うし、受験勉強で忙しかったのだから。

 

社会人になって、会社でも同じような経験をした。

 

絶望した人間が、どうしたらよいかわからなくて、暴走しているのが今の日本社会なのではないか。

 

政治家は、彼らの声を真に受けてはいけない、利用してもいけない、するべきことは、彼らに余裕を取り戻させることだ。

 

それも無理かもしれない、今は政治家自体も余裕がないのだから。

さようなら、日本の戦後民主主義。

5/23、組織的犯罪処罰法改正案が可決された。もうやだ。なんなのこの国。バカばっかりじゃねーの。

 

日本の戦後民主主義は、軍隊及び警察に、権限が与えられて過ぎた反省からスタートしていると言っても良い。

 

 

お前ら、本当に昔のことを忘れてしまったの?

 

警察に、個人のプライバシーまで干渉する権限を合法的に与えてしまえば、どういう結末が待っているか想像できないの?

 

この法案が、本当に国民の為に作られた法律だと思っているの?そんなことはない、これは警察による警察のための法律だよ!!

 

そんな法律を、私たちをテロから守ってくれる法律だとか考えている国民には本当に反吐が出る。一般常識知らな過ぎでしょ!!!

 

警察はオウム真理教による一連のテロを防げなかったトラウマが今でもあるのだと思う。

 

もちろんそれはめちゃくちゃ理解できるが、審議時間で法案を通すとか、ちゃんと説明できない法務大臣の元で強行採決するのは、国民をバカにしているとしか思えない。

 

現在、二つの日本民主主義が終了した。私たちのプライバシーは、合法的に監視される。また、与党に都合の悪い反対意見は、多くの民意があるとの名の下に、封殺されてしまうこと。

 

もうだめだ。こんな不自由な社会で行きていける気がしない。

忖度(1)

森友学園問題で一般人も知るところとなった「忖度」。

 

大雑把に言えば、上下関係や、空気を読むことを重視することだ。

 

私は小さな頃から、家庭ではに於いては専制的な父親の顔色を伺い、学校では仲間外れにされぬように余計な発言をせぬように気を配った。

 

こうやって文章に起こしてみると、うだつの上がらない小役人のようだ。

 

いわゆるまじめ系クズそのものである。

 

非常に小心者な私の気質もあるが、周りの空気も間違いなく

 

暗黙のルールを破る者を決して許さない、というものだった。

 

 

 

「忖度」という言葉を初めて聞いた時、この問題は年齢や場所を問わず、日本にはびこる病理だと思った。

 

忖度しなければ生きていけない官僚達を哀れに思い、また私の父もこうして生活費を稼いでいるのだと思うと人ごととは思えなかった。

 

 

(忖度2に続きを書きます)